空堀のまちなみの歴史


◆瓦の土取場と武家地の開発
 豊臣秀吉による大阪城と城下町の形成後、近世の松平忠明による大阪復興と市街地開発が行われました。
 旧三の丸に位置する空堀界隈は、東半分を武家地として残し、西半分は市街地として開平されました。
 市街地として開平された西半分は、御用瓦師であった豪商寺島家の瓦の土取場となり、その後、町人町として発展し、東半分は鉄砲奉行の同心50人の屋敷が端正に並ぶ武家地で、五十軒屋敷・五十軒通といった通称がつけられていました。
◆縦横に走る路地(ろーじ)
 近代に入ってからは、近世の町割を継承しながら宅地開発が進行します。
 大坂三郷の市街地開発は、下水を背割に東西70間、南北32~3間による格子状の両側町で、敷地の通り側に居室を、敷地の奥に借家を置く様式が主流となりますが、市街地開発に合わせて寺島家に拝領された空堀界隈は、南北130間の大きな街区であり、通りから敷地奥の借家へと続く路地が縦横に形成されました。
◆お地蔵さんが見守る大阪都心生活の原風景
 豊臣時代に大阪城郭の外堀が位置していたことから地名がつけられたと伝えられる空堀界隈には、土の採取等によって生まれた、高低差のある通りに軒を連ねる町家や長屋があるほか、路地を中心にそこに暮らす人々が共同で利用してきた井戸跡、暮らしを見守るお地蔵さん・お稲荷さんがあり、大阪の都心生活の原風景を今に伝えます。